江戸川乱歩は、明智小五郎や怪人二十面相、小林少年や少年探偵団など、誰もが一度は聞いたことのあるヒーローキャラクターの生みの親であり、我が国における探偵小説の祖とされる偉大な作家です。一方で、乱歩の作品は探偵小説のみにとどまらず、広く日本近代文学全般に大きな影響を与え、今日の現代文学にまでその及ぼした影響の深さははかりしれません。 深い人間洞察にもとづく乱歩の小説は、探偵小説を一つの文学ジャンルとして確立させ、戦前から戦後、そして現代にわたってジャンルの隆盛の基盤となってきました。近年は著作権が切れたこともあり、若い世代の作家によって様々なメディアミックスの作品となって生まれ変わっています。
江戸川乱歩の経歴
江戸川乱歩、本名平井太郎は、1894年(明治27年)三重県名張に生まれました。3才の時、名古屋市へ移住。名古屋市内でも数回引っ越しを繰り返していますが、そのうちのもっとも主要な旧居跡は、現在の名古屋市栄のスカイルビルの辺りと確認されています(名古屋市南伊勢町二番戸)。乱歩は栄広小路界隈に1912年(明治45年)まで、実に15年間住んでいたのです。
乱歩にとって幼少期から旧制中学卒業までの15年間を過ごした名古屋は、彼自身が語るようにその人格形成に非常に重要な時期であり、まさに故郷と言えます。江戸川乱歩という稀有な作家の誕生に、モダニズムが浸透しつつあった当時の名古屋という街が大きくかかわっていたことは、乱歩の作品をひもとくと明瞭にわかります。
たとえば、明治中期から盛んに開かれた博覧会での大仕掛けなパノラマ、「八幡の藪しらず」(迷路)、精巧な生き人形で構成された見世物小屋、歌舞伎演目などの芝居興行、活動写真(無声映画)などといった、乱歩作品に頻繁に描かれるモチーフは、ほとんどが乱歩が名古屋時代に体験したものなのです。また、上京して創作活動に専念してからも、名古屋在住の先輩作家・小酒井不木訪問や耽綺社(探偵小説合作組織)の打ち合わせなどでしばしば名古屋を訪れ、その昔は遊郭だった建物を改築した大須ホテルを定宿とし、病気の遊女が押し込められた部屋を好んで泊まっていたというエピソードもあります
乱歩の創作活動は旧制愛知県立第五中学校(現愛知県立瑞陵高等学校)在学中から始まり、やがて大正時代末期、『二銭銅貨』(1923年)で文壇にデビュー、1925年の『D坂の殺人事件』で早くも探偵明智小五郎を登場させています。エドガー・アラン・ポーやコナン・ドイル、そして黒岩涙香らの小説から影響を受けつつ、ユニークで斬新な創作探偵小説を次々と発表し、黎明期の日本探偵小説界に衝撃をもたらしました。
昭和に入ると、『陰獣』(1928年)、『孤島の鬼』(1930年)、『黒蜥蜴』(1934年)、『怪人二十面相』(1936年)、「少年探偵団シリーズ」など話題作を次々に発表し、探偵小説文壇を牽引するトップバッターとして活躍します。
戦後は、実作よりも、探偵小説評論家として活動するようになります。戦前の『新青年』に代わる探偵小説専門誌『宝石』の編集・経営にも携わりました。また、日本探偵作家クラブを創設し、その財団法人化に尽力。さらに、私財を投じて「江戸川乱歩賞」(長編推理小説の公募賞)を創設し、多くの優れたミステリー作家を輩出することに貢献しました。
多くの次世代探偵小説作家・推理小説作家を生み、育て、晩年に至るまで旺盛な活動をみせた乱歩は、1965年(昭和40年)7月に脳出血で逝去、享年70でした。戒名は生前に好んだ言葉から採って、智勝院幻城乱歩居士と言います。日本の探偵小説に対しての長年の貢献を称えられ、11月に正五位勲三等瑞宝章を追贈されました。